こころの闇の暗きをば み法(のり)の燈(ひ)こそ照らすなれ  
  永劫(えいごう)の光り頼む身は 照らさぬ所もなかりけり  

button春日岡山の歴史

春日岡(かすがおか)とよばれ、多くの人から親しまれている寺である。
朱雀(すじゃく)天皇の944(天慶七)年3月、奈良の僧 宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、 最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがおかやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。
藤原秀郷公が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て 朱雀天皇に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれている。
それ以来、藤原一門の信仰あつく栄えたが、平安時代の末期の保元・平治のころには衰えた。
その後比叡山の僧で俊海という人が、父の藤原光憲から「春日岡は、わが祖父である秀郷公の創立した氏寺である。 昔、保元・平治の乱に殿堂が焼けて灰になったが、父の志を継ぎ修行の後にこの山を復興せよ。」このことを深く 心にとどめ、この寺の荒れ果てたことを憂い、正応年間(鎌倉時代)に信徒を集めて、藤原一族および北条一門の 有志とはかり、鎌倉幕府九代執権北条貞時をさとして、1297(永仁五)年8月に復興完成し、 これ以後「法華経」を所依の経典とし、伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となる。
その後十二世の僧豪海のときに1602(慶長七)年、秀郷公から30代の佐野信吉公が、 幕命により唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。
徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝する等徳川幕府との縁故も深い。
また当山は、厄よけ元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続けており、 年毎に信者が激増し、正月大祭には約百万人以上の参拝客を仰いでいる。

button厄除け大師とは

大師は俗姓を木津氏といって12歳の時、比叡山に登り出家し、法名を良源(りょうげん)と称した。 966(康保三)年十八代天台座主となり叡山中興の祖とあがめられた。 995(永観三)年世寿74歳で遷化(せんげ)され、慈恵大師と申し上げる。
大師は生前より密教の行法を深く修め、多くの神秘奇跡の多かったところから、俗間の信仰をあつめている。
当山安置の大師像は大師の42歳のとき、比叡山解脱谷(げだつだに)においてこの世の人々の厄難苦悩をあわれみ、 能化世間苦(のうくせけんく)の秘法を感得したまい、 大師は如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)のご化身といわれている。
なお当山には、上野寛永寺門跡一品(いっぽん)親王直筆による大師称名の御真筆を拝領している。


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